渡良瀬遊水地の歴史

むかし谷中村があったと・・・

なぜ大河ドラマにならない??
世界の歴史に刻むに値する人間ドラマなのに


  なんと表現したらいいか。渡良瀬遊水地の広大な野の下で人知れず眠っている、昔の出来事。
 歴史の中では小さな渦でしかなかったかもしれない、エネルギーのものすごく凝縮された人間ドラマを。

 常に中心にあった田中正造
 田中正造の臨終の枕元にあった袋には、大矢立1本、河川調査の原稿、鼻紙数枚、新約全書各1冊、帝国憲法とマタイ伝の合本、とったままの川海苔、小石3個(正造の数少ない趣味)、日記3冊があった。それが正造の最後の財産だった(佐野市郷土資料館蔵)。
 しかし田中正造は財産のことなどまったく意に介していない。この人は、まさに人のために生きた人だった。

 MOは思うのです。人のために行動することは高貴なことである。しかしとても微妙な問題がつきまとうことがある。人のためにと言いつつ実は自分の名誉や利益を考えていないか。この場合を偽善という。偽善とまでは言えないが、普通は自身の安全の範囲で人助けをする。おぼれる人間と一緒になって自分までおぼれようとはしないが、それはそれで許されるべきことである。

  しかし田中正造は、自分が一緒におぼれることさえ恐れなかった。それも縁もない一般の民のためにである。縁がないわけではない。自分が地区選出の代議士だったということである。すごい責任感 !? 責任感だけでここまでできるだろうか?

  歴史上で、このような人を、MOはほとんど知らないのです。

  なぜ大河ドラマにならないのだろうか。ノンフィクションそのものがすさまじいドラマなのに。田中正造を取り巻くたくさんの人々それぞれの人間性にも心惹かれるものがある。明治はすごい。

  ちなみにMOは、買い集めた足尾鉱毒事件関係の書籍が値上がりしないかな?などと欲に目がくらんでいる人間であります。


  MOにはこのことに関しこれ以上叙述する力がありません。この壮大なる出来事を歴史小説にした本をご紹介したいと思います。おすすめします。

大鹿 卓 『渡良瀬川』 

 中央公論社版(昭和16年)と、大日本雄弁会講談社(現在の講談社)版(昭和23年)、さらに春歩堂版(昭和27年)があります。大日本雄弁会講談社版は筆者によるかなりの手直しが入っています。春歩堂版は、それに加えて第四篇が追加されています。その後、大日本雄弁会講談社版は、講談社(昭和45年)と新泉社(昭和47年)から再刊されています。

大鹿 卓 『谷中村事件』

  これは、前作『渡良瀬川』の続編というべきものです。田中正造は、天皇に直訴した後議員を辞め、谷中村に入るのですが、そこから話が始まります。大日本雄弁会講談社(昭和32年)刊。その後、新泉社(昭和47年)から再刊されています。

城山 三郎 『辛酸』 中央公論社(昭和45年) 中公文庫(昭和51年)刊

  前書は谷中村強制破壊まで。本書はそれ以後、正造が死ぬまで、さらにそれ以後の残留民の闘いを扱っています。


渡良瀬川の付け替え


明治40年

昭和4年

 明治40年の地図では東北部に大きな沼があるのがわかります。これが赤麻沼でした。
 また、渡良瀬川は現在よりも西側(群馬県との県境)をくねるように流れていました。
 南部にはいわゆる谷中村があって、人々が生活していました。


 明治時代には、渡良瀬川上流にある足尾銅山の採鉱の規模が急拡大し、おもに出水時にそこから流下する鉱毒(主として銅)のために、渡良瀬川流域の農地は大きな被害を受け、農民は貧困を極めるようになりました。田中正造が帝国議会で奮闘したり農民の大押し出し(請願行動)等によって、足尾鉱毒事件は新聞紙上をにぎわす当時の一大社会問題になりました。


 その間のことはここでは割愛します。次の本をお薦めします。

林 竹二 『田中正造の生涯』 講談社現代新書 昭和51年刊


 政策的な最終結論として、流域の洪水の危険の緩和と鉱毒の沈殿のために、この地が選ばれたのです。

  谷中村の廃村が決まり、住民は半ば強制的に立ち退かされました。1907年(明治40年)、谷中村残留16戸の家屋強制破壊が行われました。延命院共同墓地跡と小高いいくつかの水塚が現在、当時を忍ぶ唯一のものです。

 渡良瀬川は、掘削工事により赤麻沼に注ぐように流路が変えられ、大正7年から現在の場所を流れるようになりました。また遊水地を取り巻く周囲堤が造られました。

 昭和4年の地図では、赤麻沼が急に狭まっていることがわかります。
 渡良瀬川が赤麻沼に注ぐようになったため、運び込まれた土砂によって赤麻沼がどんどん埋まっていったためです。

 特に大きな洪水や増水のとき、渡良瀬川がこの土地に土砂を堆積させていきました。渡良瀬川による新しい沖積土は数メートルに及んでいると思われます。

 その際の堆積物には銅が含まれており、MOが検査して調べた結果では、興味深いことに濃度は堆積層ごとにかなり異なっているようです。

 大正7年以降の洪水には次のものがあります(引用文献 『利根川百年史』 昭和62年)

1924年(大正13年) 洪水
1930年(昭和 5年) 洪水
1935年(昭和10年) 洪水
1938年(昭和13年) 2度の洪水(台風)
1941年(昭和16年) 洪水(台風)
1947年(昭和22年) 洪水(カスリーン台風)
1948年(昭和23年) 洪水(アイオン台風)
1949年(昭和24年) 洪水(キティ台風)
1950年(昭和25年) 洪水(台風)

 昭和38年から渡良瀬遊水地の調節池化工事が始められ、内部が囲繞堤によって、第1・2・3調節池に区分されました。第1調節池は昭和45年、第2調節池は昭和47年、第3調節池は平成9年に、それぞれ完成。
 また、平成元年、南部に渡良瀬貯水池(谷中湖)が造られました。


サイトマップ