重度肢体不自由者Tさん(43歳)の口腔周辺の運動機能の向上をめざした指導
1.はじめに
指導対象としたTさんは年齢43歳である。筆者が長らく障害の重い学齢児の指導をしているうちに懇意になった人で、筆者が自分の勉強のために6年前から彼の体に触らせていただいてきた。
Tさんは覚醒中は全身に強い緊張があり、体を堅くしたまま同じ姿勢でベッドで寝ている。しかし知的にはごく普通であり、おもしろい話に笑ったり、ほとんど唯一自由に動かせるまぶたをぱちぱちさせてYes, Noの意思表示をし、かなり高度な会話をすることができる。
1994年10月頃、Tさんの全身の緊張が強まり、発熱と発汗が著しく、また顎を強く噛みしめ歯肉を傷つけるため抜歯の処置がされたほどだった。呼吸は見るからに苦しそうで、速く浅く無秩序的でシーソー呼吸気味であった。
その時期から筆者はAさんの体に触れさせてもらうようになり、Tさんとコミュニケーションをしながら緊張緩和について効果的な方法を模索した。それによってまとめ上げた考えと方法は、「体操」と称しここで公開している。
Tさんの筋緊張は全身的にかなり改善し、緊張が強くて全く動かせないほどだった上肢は他動的に動かせるようになった。また日常的な顎の噛み締めが少なくなり、呼吸運動にも問題は少なくなった。日常的だった発熱と発汗がなくなり、寒さを訴えるようになった。
Tさんとのそれまでの関わりについてはすでにまとめてあるが、今回はその後(平成10~12年度)行ってきたことについて述べる。
Tさんの全身的な筋緊張の問題がかなり改善されたことから、TさんのQOL(Quality Of Life)の改善のために、筆者は動作の拡大を考えた。
Tさんが自分の意思で自由に動かせる身体部分は唯一まぶたの開閉であったが、後述する理由で、顎、舌、口唇、発声などのそれぞれの動作の習得、発達に可能性が考えられた。そこで、それぞれの基本動作を30秒ずつ繰り返して行うよう本人に指示し、それを継続して続けるようにしてもらった。
その結果、比較的明瞭な効果があったので報告する。
2.対象者と実態
(1)対象者: Tさん(43歳 男性)
(2)障害名: 脳性麻痺(痙直型)
(3)指導開始時の実態:
知的面の実態 |
理解力は全く普通の人である。かなり高度なジョークにもげらげら笑う。 まぶたの開閉によりYes,Noを示すことで会話ができる。コミュニケーションを深めると内面が豊かであることがわかる。 性格は穏和で屈託なく明るい。 |
運動面の実態 | |
体幹 | 屈曲、反り返り、ひねり、いずれも不可で、姿勢を変えることはできない。 |
下肢 | 足首に慢性的な緊張があるが、動作は全く見られない。両足とも屈曲し拘縮している。 |
上肢 | 両腕とも屈曲し拘縮している。覚醒時には硬直させる緊張があるが、睡眠中にはなくなる。動作はほとんど見られないが、力を振り絞ってわずかに動かすことができる。 |
手指 | 曲がったまま拘縮している。動作はほとんど見られないが、力を振り絞ってわずかに動かすことができる。 |
呼吸 | 呼吸は浅く、やや不規則。意思で呼吸を制御することはできない。 |
日常的な噛み締めはなくなったが、口を開けて下さいと指示すると逆に噛み締めてしまう。本人は良く笑うが、笑うときには自然に開口する。食事の時には、介助者が面白い話を言って笑わせ、口を開かせていた。 | |
舌 | 顎下が硬く膨らんでいるので舌根を緊張させていると思われる。舌を前後左右に動かすことは比較的容易。上下の動きはやや困難を伴う。 |
口唇 | 顎の噛み締めに伴って口唇を突き出す。 |
まぶた | 全身で唯一随意的に自由に開閉できる。 |
発声 |
笑うときに声を出している。 「はい」と言えるときもあるが、声を出して下さいと指示すると喉などに力を入れてかえって出せなくなる。しかし、無意識で声を出すときがあり、筆者は「たこやき」などと言ったのを聞いたことがある。 |
3.指導目標
(1)顎を随意的に使い、口を楽に開閉できる
(2)口唇を自由に動かせる
(3)発声できる
指導目標設定の理由
(1)QOL(Quality Of Life)の改善
顔・口部分を意思で自由に動かせることが、計り知れないほどのことを本人にもたらすだろう。
食事はTさんにとって難行苦行の一つだった。口を開けようとすると逆に噛み締めてしまうため、介助者によって無理にスプーンを口に押し込まれることがあり、よくむせていた。
緊張により気道を閉ざすことで呼吸を苦しくすることがしばしば見られた。
コミュニケーションに関して,Tさんは自分から発信することが難しい。質問されればまぶたをパチパチさせて答えられるが、自分から意思を発信することは困難である。一時、まぶたの開閉を捉えるセンサーを用いて入力する装置を試したことがあるそうだが、まぶたが疲れたりしてうまくいかなかったと聞いた。発声が容易にできるか、あるいは他の身体部分を自由に動かせればパソコンに入力ができるので、自分の意思を伝えられるようになるだろう。
(2)顔・口部分の動作拡大の可能性
脳性麻痺の痙直型両麻痺の原因は、未熟児の脳室周囲白軟化(PVL)にある(河村光俊 1997)。また随意運動に係わる神経繊維の束である錐体路がPVLの部分を通っており、文献中の図で見る限り、下肢、体幹、上肢、顔、口の順でPVLの影響を受けやすいと読みとれる。
Tさんの実態を見ると比較的それが当てはまっている。顔と口に関して、まぶたが自由であるのと、舌が比較的動かせる点などでそれが言える。しかしよく見ると、顔・口でも個別に動作自由度は大きく違っている点が疑問として浮かび上がってくる。彼の特に大きな問題は、顎を使っての口の開閉が困難な点にある。ところがそれは絶対できないのではなく、笑うときには無意識に口を開くのである。ということは一つの可能性として、この問題は原因が錐体路のダメージにあるというより、随意運動に係わる学習未熟にあるかもしれない。
4.方法
次のことを口頭で指示し、本人に努力してもらう。またその必要性を本人に伝え理解してもらう。
(1)口を開ける、口を閉じるを30秒ずつ行う。これを数度繰り返す。当初は介助してこれを行ったが,自分でできるようになってからは介助しないようにした。
(2)舌を前後左右上下に動かす。
(3)口唇を突き出す、横に引くを30秒ずつ継続して行う。
(4)声を出す。
※留意点:
・一つ一つの単位動作に30秒以上の時間をかける。
・実施する前に「体操」をして全身の緊張を取っておく。
この方法を採った理由
Tさんの場合、笑うときは実に簡単に開口する。また無意識には発声できる。ところが意識してそうしようと頑張るとそれができない。どうなってしまうかというと、あらゆる筋肉を同時に収縮させてしまうのである。
一般に動作の際には、関節に結びついた拮抗筋のうち片側だけを収縮させもう片方は弛緩させなければならない。ところがTさんは同時に両方を収縮させている。それは顎の開閉の際、手で軽く介助してみることでわかる。開く方にも閉じる方にも抵抗が感じられる。
一方、口を閉じようとする際には、顎を噛み締めると同時に口唇が前に突き出る。口を開けようとすると舌が出る。また、声を出そうとすると、喉が閉まり、舌が出る。
これらのことから、随意運動の際にどの筋肉をどう使うかの特定ができておらず、動作の分離ができていないと思える。
これらの問題の改善のために上記の方法を採った。動作を個別に取り出し反復して練習すること、および筋肉の収縮弛緩の刺激を持続させること(一回30秒以上)によって、個別に筋を意識でき適切な筋の協調運動を獲得できるのではないかと考えた。30秒以上というのは筆者の方法で、神経細胞の新たなネットワーク形成のために刺激を一定時間継続させるという考え方である。
5.効果
冬休みが明け1週間ぶりに会ったとき、彼は見てみろと言わんばかりに口を開閉して見せた。無理なく口を開け、また閉じた。口唇や舌の突出がなかった。
まだ困難を伴うものの、自分の意思で口を開閉できるようになり、食事が以前に比べてはるかに楽に摂取できるようになっている。
パソコンへのマイク入力ができるようになった。Tさんは口を強くすぼめつつ息を吹き出すことで「ブッ」という音を立てて入力するのである。発声で入力を促そうとしていたのだが、こちらの方が間違いなくできるようになった。この練習の成果か、呼吸のコントロールができるようになってきた。
発声については、まだ喉に力を入れてしまう傾向が強いが、力を抜くように指示すると声が出せるようになってきた。まだコツを得ていないようであるが、これから克服できると信じられる。そうなればパソコンを使っての意思表示が容易になるだろう。
6.考察など
中年の男性でも一念発起して努力すれば、新たなことを獲得できることはよく言われることだが、それを43歳のTさんが証明してくれた。人間の学習能力はすごいものだと改めて感じる。生涯学習は人間に与えられた使命に違いない。もう歳だから進歩はないだろうなどという考えは間違っている。それが健常者に限らないことが、驚きと感動を持って理解できた。
Tさんはこの年になるまで毎日の生活に大きな不自由を負ってきた。重度の障害は克服しがたいものとして社会的にも見捨てられてきたと言えるかもしれない。Tさんは養護学校にも行っていない。修学猶予という言葉で切り捨てられてきた。
彼は今、字を学習している。ひらがなの学習もしたことがなかったのである。知的能力は十分に高い人で、教えればどんどん覚える。彼は真剣である。口先で「ブッ」と音を出すことでパソコン入力ができるようになってきたので、ひらがなを覚えれば自分の言いたいことを表せるからだ。四十の手習いというとゆとりを持った人のすることのようだが、これほど切実な手習いがあるだろうか。学習の原点を見る思いがする。
同時に、同様の人に対する教育補償について陽を当てる時代に入っていると強く思う。
最後になったが、彼は私に教師の仕事とは何かを改めて考えさせてくれ勇気づけてくれた。心から感謝の気持を申し上げたい。
7.参考文献
河村光俊 1997「運動発達障害」 『図解 理学療法技術ガイド 石川・武富編 文光堂』